Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

2

yuuyake2


【第3章:欠如の烙印から《国家-状態》へ】
『……《国家》とは、恒常的な連続性を目指すこうした《規則化=コントロ-ルの装
置》において〈自己〉の支配を代理されるすべての〈組織化ファクタ-〉が、常に同
時に〈代理する誰か、あるいは何か〉でもあるという二重の自己言及を行い得るため
の根拠である。つまり、「(自分で自分を支配することを代理=肩代わりされる)〈私〉
は、(その同じ自分自身の支配の代理を引き受ける)《我々=国民》である」という
ことだ。もちろん、ここでの二つの括弧は、たいてい内密な沈黙の内に隠されている。
 ………何らかの《(準-)組織化ファクタ-》が、《組織化ファクタ-=X》とし
て自己形成/訓練するということ、すなわち《同じ(=X)であること》という仕組
みに連結されるということと、その何らかの《(準-)組織化ファクタ-》が、《規
則化=コントロ-ルの装置》の標的としてそれに連結されるということがそこにおい
て連結(=超連結)し得るプロセスは、そのプロセスへと連結される《組織化ファク
タ-=X》(すなわち〈我々=X〉)によって常に、そしてたとえ常にではないにし
ても、そこへと連結されることへの抵抗プロセスとしてその都度の《生存の表現/実
践》によって、《国家-状態》とよばれ(得)る。
 ………《国家-状態》とは、決して存在しないはずの《先立って=ゼロ/不在》の
代理として……この代理によって自己形成/訓練を代理されるあらゆる流れ/プロ
セスが、常に同時にその《ゼロ/不在》の代理を引き受けることを可能にする《ゼロ・
プロセス》の名称である。従って、《国家-状態》はどこにも存在しない。……その
代わりに(その代理として)、ありとあらゆる流れ/プロセスが《国家-状態》とな
(り得)る。(言うまでもなく、たとえそれが電子ネット上の流れ/プロセスであろ
うと、一定の条件のもとで。) すなわちそれは、ありとあらゆる流れ/プロセスを
不可避の自己分裂へと駆り立て、しかもその自己分裂を無際限の代理プロセスにおい
て引き延ばし、転移させながらかろうじて隠蔽していくのだ。
 ………従って……もし《民主主義》と呼ばれるものが、あらゆる《生存の表現/実
践》に開かれたものとして生成するのならば、それはより基礎的だとされる観念……
に従属する二次的な〈政治システム〉ではあり得ない。それどころか、……それはそ
もそも〈政治システム〉などといった不可解なものではないはずなのだ。仮にここで、
いわゆる〈理念〉が表現されているのだとしても、この〈理念〉はその都度の《生存
の表現/実践》である限りで、つまり《支配を誰かが、あるいは何かが代理すること》
という装置にその都度抵抗する限りでのみその生命を持つ。そしてこの《生存の表現
/実践》が〈我々〉によって《……であること》と呼ばれるものをうがつ亀裂こそが、
かろうじてあの《先立って=ゼロ/不在》の、すなわち沈黙と光と闇の奪還=創造を
実現していくのだ……。
 ……〈今ここ〉を超えて、《私=X》は裂け目のただなかで《ゼロ/不在-(連結
項あるいは亀裂)α[問題=X]》として生成する。……それは、始まりも終わりも
ない旅から切り取られた実にささやかな断片として、〈我々〉の没落とともに生成す
る《来るべき者たち》への呼びかけとして、ひどく鮮やかな姿を現したのだ。『城』
をも飲み込む《管理回路》のすぐ傍らに、《来るべき者たち》、あるいは民衆の影が
延びる。』(『ゼロ・アルファ』 光景・-2.)


 『……遺体のかたわらに遺品。黒い学生帽。教科書などの入った白い学生カバン。
青いビニ-ル・バッグ。中にエンジ色のジャ-ジの上下、白い運動着、ペンライトな
ど。現金七十円の入った小銭入れ。
 遺品を調べたところ、学生カバンの中の教科書に、二枚の紙片がはさんであった。
 そのうち一枚にはこうある。
 
  今日つきあえ。
  学校からリアカ-をかりて、
  十郎君のバイク(きのうのワインレッドのバイク)を、リアカ-にのせ、もっ 
 てくから!
  もし、
  これないなら、十郎君に言え、(帰ったら、十郎君に、ヤキ入れられるよ)
  そして、
  おまえらが、学校からリアカ-を借りてこい、あとはまかせなさい、 
  次郎と三郎へ
  和夫より

  もう一枚には――。

  次郎へ
  三郎と二人で、今日、千円あつめてくれ、クラブのじかんに、ぜったいな!
  あと、あした金もってこい、一万円な、
  ぜったいだぞ、
  十郎君にやらなきゃなんないから(……)
 
 ……「どんな小さなことでも、
先生にちゃんと話せる生徒にならなきゃ駄目じゃないか」
 黙って小さくうなづくだけだった。
 いじめられている子は、ある時期から沈黙のカラに閉じ籠もるようになる』
(佐瀬 稔『いじめられてさようなら』草思社p.14-15,90.強調及び部分
的な改行の操作は引用者による)

 ――「先生にちゃんと話せる生徒にならなきゃ駄目じゃないか」という欠如の烙印
を刻み込まれた時の彼のこの上もない絶望。誰にも分かってもらえないのだ。暗 黙
の内にあらかじめ強いられた告白を、ちゃんと話すことなどできない。そこにはぎり
ぎりの抵抗がある。……しかし、話さなければ、「ちゃんと話せる生徒」にならなけ
れば、ただ殺されるしかない。絶望=袋小路。それこそ、《国家-状態》へと組み込
まれた我々が途方もない時の流れの中で引き継いできたものなのだ。あのエピメニデ
スのパラドックスを、かくも不吉な烙印として抹消するために、ありとあらゆる「人
類の改善者たち」を《国家-状態》と不可分の装置として生み出しながら。すなわち、
「人類の改善者たち」を欲し、雇い入れたのは他でもない我々なのだ。我々の一切の
苦悩を救済することを約束し、我々の永遠の支配者たることを欲したこの無数の「改
善者たち」を必要としたのは、永遠に「癒し」を求める者たち、つまり他ならなぬ我々
だったのだ……。



 『……和夫君が次郎君をいじめる方法のうち、縄跳びひもでグルグル巻きにして教
壇に置き、先生が教室にくるまでに『縄抜け』をやらせる、というのを一度だけ見た
ことがあります。そのとき、生徒はみんな面白がって見ていたような気がします』
(同上 p.98.強調は引用者による)

 ――この資料はおそらく、こう語っている。この《国家-状態》において我々が我々
である限り、いじめられるはずがない。従っていじめられる者は、本来存在している
はずのない(べきではない)者であり、かくも不吉な欠如の烙印を刻み込まれた者で
ある他はない。よってそれについては、かくも決定的な証言の場面においてさえ、「よ
うな気がします」という極めて曖昧な話法しか可能ではないような、そうした存在な
のだ。

 ――だとすれば、次の資料で告白された極限状況を、我々はもはや他人事だとは言
えなくなるのだ。

 『……りょう先生と、長男との父子関係を探るうえで、見すごせない文章がある。
「男について」というりょう先生の書いた一文である。
 この文章を読むと、りょう先生は思春期になってから自分のなかにひそむ女性性、
つまり女らしさにこだわりを持ちはじめたようだった。大学での転部までも、自分の
女性性に結びつけて考えているように見える。そんな自分が男の意地にひかれるよう
になったのは、結婚して子どもが生まれてからだと書き、子どもと自分の仕事のどち
らをとるかというギリギリの局面に立たされたら、百歳のときに生まれた子イサクを
神に捧げるようにとの
命令に服する姿勢を示して、
信仰の厚さを認められた旧約聖書のアブラハムと同じように、子どもより自分の信条
を選ぶと書いているのである。
 これは事件の十五年前に書かれたものだが、義のためには、わが子を犠牲にすると
いうのが男気だと説くりょう先生は、今日の事態をすでに覚悟していたようにも見え
る。
 ……私たちの家庭の展望を切り開くには、親の責任で長男の命を絶つ以外にない
ということです。
 ……それに子どものことは親がいちばん、よく知っております。
 そのようなわけですので、親だけの判断で殺すことを話しあったのです。
 ……りょう先生は、息子からはじめて「てめえ」呼ばわりされたことで怒り心頭に
発した。
 ……「……私は人間として扱われない“てめえ”ということを言われたり、器物を
壊されたり、そんなことが許されるかという思いで、殺意が決定的になったのです」
 このとき、八日から三日間の水子供養祈願が終わっても長男が暴れたら殺すことも
確認した。
 ……何も気づいていない長男は、自室のベットの上で左手を胸に置いて熟睡してい
た。
 ……「弱りきった声で長男が“許してくれ。悪かった。お願いだから殺さないでく
れ”と言った最後の言葉を覚えています。主人はこれに対して
“いまじゃ、もう遅いんだよ。
親を親とも思わない人間は親の手で
死なせてやる”
と言ったような感じで、とどめを刺したのです」』
 (横川和夫 『仮面の家 先生夫婦はなぜ息子を殺したのか』 共同通信社 P.
65-66,P.124,P.128-129,P.132-133.強調及び改行
の操作は引用者による)

 ――男性=父親であることの極限的なモデルを植え付ける旧約聖書という〈言表の
主体〉と化したりょう先生。彼は、あらかじめ予定された「私たちの家庭」の運命の
実現、つまり父親の責任の完全遂行において、今日の事態をすでに覚悟することが出
来たのだった。男性=父親が同時に人間として扱われないということ、つまり欠如の
烙印の露呈が、《国家-状態》としての私たちの家庭において許されるはずがないと
いうこと、彼にとってこれ以上に絶対的な要請が他にあっただろうか?「いまじゃ、
遅いんだよ」とか、「死なせてやる」といった予定された響きを持つ彼の言表行為は
 、彼の運命/プログラムがあらかじめ記載されていたことを表現しているかのよう
だ。だが、この欠如の烙印の抹消を賭けた試みは、同時に、あらかじめ失敗を運命づ
けられてもいた。なぜなら、それは抹消不可能なウィルスとしてプログラムに記載さ
れた彼の「女らしさ」の抹消を賭けた試みでもあったからだ。人は、同時に女になる
ことなしに、男になることなどできはしない……。



 ――時空のまどろみが、微かに揺らぎ始める。ここでふと、窓ガラスから静かに射
し込む黄昏の光に再びうながされて振り向くと、いつしかダイニング・テ-ブルの上
に置かれたディスプレ-画面にもう一つの告白文が……

 『……すでに語られた(入力された=書かれた)ことと語る行為(その都度の入力
=書く作業)の融合/重ね合わせの理想的な仕込みと飼い慣らしの場としてのディス
プレ-画面。そしてその無際限な連鎖としてのインタ-ネットの時空における「電脳
カルト」の急速な増殖。そしてそこにおける隙間/裂け目の同時増殖。
 ――これは私の友人が語っていたことだが……やがて超グロ-バル市場の総体を
制覇し、〈我々〉の一切の時空が《国家-状態》で覆い尽くされていることを完全に
暴露する《永遠の超帝国》が出現することになる。そしてその時にこそ、超帝国の最
終支配/予定されたプログラムに挑戦するために生成する《来るべき者たち、あるい
は民衆》……。あるいは、マイトレ-ヤ/未来仏(Miroku)?』

 ――黄昏の光に包み込まれた一枚の紙切れ。そこに刻まれ、同時にディスプレ-の
上に映し出された告白文を眺めながら、私の思考は遥か彼方の時空へと向かう。 …
…我々人間は、何よりも〈線を引くこと〉という革命的な身ぶりの創造によって、我々
人間としての有機化を決定的に(開始したのではなくむしろ)仕上げたのではなかっ
たか。そしてこの身ぶりの有機化のプロセスは、〈数えること〉という身ぶりの超有
機化によって――生命という概念レベルで見ればすでに潜在的な母胎として生成し
ていた膨大な時空の創造/組換え作業の果てに――《国家-状態》を完璧かつ恒常的
に現実化したのだ。その現実化のプロセスに亀裂をうがち、季節外れの錯覚としての
自己認識を生み出すとともに隠蔽する、避けがたい隙間/裂け目を同時に包み込みな
がら……。

【第4章:“書き続ける男”と“書き始めた(少)女”の出会いと別れ、そしてそ
の永遠回帰】
 ――ところで、迷宮からの脱出の鍵を手にしていたはずのアリアドネ-は、それか
ら一体どこに消えたのか?

 『……言うまでもないことだが、他者の眼差しがそこへと内面化される空虚な部屋
=自分というものがあらかじめあるわけではない。また、もしまだ自分というもので
はない空虚な部屋を仮定するとしても、それは部屋と言うよりも、むしろありとあら
ゆる自分というものを生産し続ける無人工場だと言ったほうがいい。私はそこから生
まれてきたし、あなたもそうだ。あなたは私のすぐとなりにいたのだから。(もっと
もあなたに限らず、あなたたちは皆、私のとなりにいたのだ。) 私が生まれてきた
ちょうどその時、あなたはすぐとなりの穴から生まれてきたのだ。なぜか、まだ眼が
見えなかったはずの私にはその記憶があるのだ。あなたが私にとって一体誰であるの
か今は問わない。工場そのものについて語ろう。
 ――誰一人そこで働いていなかった。大げさに言えば、おそらく、労働の観念をそ
こで獲得することは決してできないだろう。そもそも、労働者がそこにはいないのだ
から。もちろん、彼らを働かせる者たちもいるはずがない。いわゆる機械もない。無
人工場であるのみならず、無工場だ。ひょっとすると、工場でさえないのではないか?
 何もない室内。すっきりしていると言えば、言えよう。あえてそう言えばの話だが。
しかし、とにかく退屈きわまりない。何一つ生産されないのだから。わくわくするこ
となど何もないではないか? 誰がこんな無駄なものを作ったのか、そいつの頭を疑
いたくなる。少しは知性というものを、働かせてほしい。
 だが、そこにはすでに私がいたし、そしてあなたも、いや、あなたたちすべて(=
皆)がいたのだ。誰一人そこで働いていなくても、工場の様子は何であろうと隠しカ
メラによって常に監視されている。またそこは、あらゆる方向へと光が反射し合う白
いスクリ-ンによって囲まれていて、無(人)の室内が絶えず映し出されている。―
―分かっている。今、私もあなたも、そして皆がそこにいたと言ったばかりだとあな
たたちは言いたいのだろう。そのことに間違いはない。しかし、やはり室内は無人な
のである。カメラの眼差しにとらえられる室内は、あくまで無人なのだ。では一体、
私やあなたたち、あるいは皆はどこにいたというのか?
 もしそこにいなかったのであれば、皆と一緒にカメラをのぞいていたに違いない。
無人の室内をじっとのぞいていたわけだ。私やあなたたちは、この皆でもあるのだか
ら、これは当然ではなかろうか? 他方もし、そこにいたのなら、その同じ皆にのぞ
かれていたに違いない。さて、どちらだろうか? ――しかしまだ、妙に大人ぶって、
性急に解答を出すのはやめておこう。
 ところでこの工場の生産行程は、あくまでも皆の噂の上の話なのだが、母親の胎内
から生まれ落ちたばかりの赤ちゃんを、少なくともあと三回誕生させるというきわめ
てもったいぶった作業であるらしい。話によると、工場はもったいぶった母親で、つ
るつるした白いスクリ-ンに囲まれた赤ちゃんがそれにぶつかっていく勇気を与え
るかに見せかけながら、あるいはそう挑発しながら、いつでも同じ動き、同じ形、同
じ黒い影が接近してくること、何度ぶつかってもそれを乗り越えられないこと、その
黒い影を消そうとしてもそれに常に邪魔されてしまうことを教える。赤ちゃんは学ぶ
のだ。(「分かった!」) その余計なものとともに、これからずっと生きなければ
ならないことを。すなわち、第二の誕生。
 噂話だけを唯一の種にして、残りの筋書きを推測してみよう。工場=皆は彼のすこ
やかな成長を見守り、そのことを彼にそっと教えようとする。工場=皆が隠しカメラ
を使って「赤ちゃんの成長日記」という類のタイトルのビデオ作品を密かに制作し続
けていることに彼が気づくのは、あの黒い影が決して余計なものではない証拠に、こ
の工場では〈私〉いう不気味な名前を持つことを学ぶときである。すなわち、第三の
誕生。
 そして今、測り知れないほどのもったいぶった物事の洪水をかろうじて泳ぎ渡りな
がら、私は自分というものについて書いている。工場の生産行程は、文字を習得した
私が、その工場の隠しカメラで室内をのぞきながら同時にその室内でのぞかれつつ録
画される自分というものを探す=書くというどうしようもなくもったいぶった営み
によって完成するかに見える。第四の、そして最後の誕生?
 いや、そう言いきることはできない。今思えば、先の言い方(つまり「少なくとも」)
は決していい加減なものではなかった。このきわめてもったいぶった営みは、そのあ
まりのもったいのゆえに乱反射しながら絶えず脱線する癖があるので、あの白いスク
リ-ンのちょっとした隙間/裂け目を見つけだしては散歩に出かけ、ふと振り向いて
笑いながら工場を外から眺めることができるのである。

(散歩中。無人工場の壁の余白に次のような落書きが浮かび上がってその後消える。)
……[以後引用テキストの最終部分が続く――引用者による付記]』
 (『ゼロ・アルファ』第二部)

 ――実のところ、「彼」は“書き始めた(少)女”であり、“書き続ける男”でも
ある。“書き続ける男”と“書き始めた(少)女”は、いつかどこかの迷宮で出会い、
そして別れる。しかしこの出会いと別れは、おそらくは、永遠に回帰するのだ。もし
我々が絶滅への道、あるいは殺人の無際限の連鎖をたどることを望まないのなら……。
 すなわち、
 あの少女が巨大な没落を乗り超えて獲得した、来るべき民衆へと向けられた力がな
ければ、
遅かれ早かれ、我々はクノッソスの迷宮に潜む怪物ミ-ノ-タウロスに喰い殺されて
しまうのだ……。

 『***から皆さんへ
☆裁判をするために***にカンパをしてくれている人[へ――引用者の推測による
補足:以下同様]
私はある相談所の***よろしいね
それから、全国のみなさん、***が裁判をするためのカンパをた[くさん……]
今***は、相談所から、仕事場まで、毎日電車に乗って行っています。
仕事の内容は、市場で、野菜を計ったり、袋詰めをしています。
仕事の方は大変だけど、ちゃんとガンバってやっています。
それから、裁判のやるための必要な、けいさつの、質問や、検察官の(……)
しっかり終りました。
後は、裁判をまつだけです。
私の将来の夢は1つは、アパ-トとかマンションで1人暮しをして見たいと思います。
それから、もう一つの夢は、やっぱり明るい家庭を作りたいと思います。
あともう一つの夢は、成人式に向けて、着物を買いたいと思います。
それに、他の子供たちにも、自分と同じようにぎゃくたいを受けないよう[に……]
それをねがっています。
全国のみんな、***が教えたい。世の中でも、***と同じ人が、たく[さんたく]
さんいる。
例えば、1人ぼっちになり、涙している人が、たくさんいるんだ。
***も、今まで、ぎゃくたいを受けてきたけど、やっぱり1人ぼっちになると[…
…]
でも、[……]を入って[…]たくさんの人の[出会?]いで、元気になり、自分で
も、[……]
まだ、まだ……色々な悩みをもっている人が[………]』
(毎日新聞1997.2/5.『福祉を食う――虐待される障害者 PART・』3
 記事に添えられた少女の手紙の写真から読み取ったもの)

 ――ここで私は、今からもう20年近く昔の告白文を、完全な自己認識の不可能性
を告白した言表として発見する。
 よく見ると、別に驚きはしないが、なぜか少年時代(16才の初め)の私自身のも
のだ。記された日付は「1977.12月21日(pm.)7:31~」となってい
る。よどみなく一気に書かれたらしく、推敲の跡がない。いわゆる啓示(スピノザの
「第三種の認識 Tertium cogitationis genus」?)というものなのだろう。タイト
ルは、『(一つの)新たな直観によってそれ迄のいくつかの思考をいくらか
結合させた総合的な(諸)問題に対する概括的な試論』となっている。タイトルはや
や冗長だが、確かにそれまでの(遅くとも1975.10以降の)一切の思考を組み
込み、同時に以後のあらゆる思考をすでに予告してしまっている。つまり、ある究極
の直観は絶対的速度としてあらゆる知の地層を横断する思考の矢となるということ
だ。
 それはともかく、付加されている注)と「問題点」及び「訂正」という記述[これ
は本文全体のポイントに注意を促したものだ]とともに、以下にその全文を引用しよ
う。(強調・傍線は全て原文による)

 『我々は、各自固有なベクトルの帯の内部に生きている。我々が知り得るどんなこ
ともそのベクトルの内部より超出することはできないし我々の知り得るどんなこと
もその存在要因を我々の存在するベクトル以外に求め得ない。従って我々は何も真に
知り得ない。しかもこのベクトルを測る規準などどこにも存在しないのだから我々は
あるいは無限である全体の中における有限であるかも知れぬし、虚無であるかも知れ
ぬし、あるいはそのどちらでもないかも知れない。我々は我々に固有な“生成の内部
における生成のベクトルの内部”より超え出ることは永遠にできない。人類の全ての
歴史がすでに一つのベクトルであるのだから、我々は永遠にある一定の量を超え出得
ない。我々のベクトルを否定することは同時に我々を否定することだからである。
我々が知り得る時間的・空間的な幅と大きさは限られている。我々は未来を予測する
ことは出来るが知ることはできない。未来を知ること(仮定として)は自らのベクト
ルの否定であり自らの否定である。我々の未来は常に現在に流れ込む。未来は常に現
在であり現在は常に過去となり得るが我々は未来を知ることができぬように過去と
現在をも知り得ない。我々は未来と現在と過去とをどこで分離するのであろうか。お
そらくベクトルの流れを停止することができたときに初めてそこに瞬間が現在しそ
こに過去と未来が彼方に広がるであろう。しかし過去と未来は存在してはいない。そ
して現在も存在してはいない。(現在という概念が成立しないという意味で。) そ
こには瞬間だけが在る。それは瞬間である。我々は瞬間を理解することによって初め
てその瞬間より派生する全ての連関の機構を、その一地点より来るもの(流れ)、及
びその一地点にいたるもの(流れ)を理解するだろう。
その瞬間を唯瞬間それ自体として我々の生成の流れの停止の中で、即ち瞬間の完全な
移動のない存在の凝視において初めて我々は我々の組成を、そして創造の過程を、ま
た全ての連関を知るのでありそこで初めて瞬間が永遠と融合するのである。それは同
一の瞬間の永遠の持続である。それはある空間内における“時間の存在化”であり、
同一の瞬間内における全ての存在の連関的意味の理解であり、そうすることなしには
我々は真に連関を、つまりすべての組成と創造の過程を完全に知ることができない。
もしそれが可能ならば、我々は我々は我々を知り得ようが、それは不可能である。従
って、瞬間を独立に取り出すことができない以上、我々は何も完全には知り得ないか、
あるいは何も知り得ない。我々はある固有なベクトルの内にある。それは全宇宙の時
間、及び空間の内部のいずれの時間、いずれの空間であるのかは解らないしまたそれ
はいずれの時間、いずれの空間であってもさしつかえないが、我々が全体を知り得な
いのと同様に少なくとも我々のベクトルの全体だけでも、また自己の固有の生存のベ
クトルのみでも完全には知り得ないのはそのベクトルを個々の瞬間において停止さ
せて考察することができないがためである。我々は常に変様している。我々の存在は
変化し、従って存在に対する思考も変化する。世界は変化し世界観も変化する。しか
しそこには根源的な連関があるのである。先に述べたように我々はそれを完全には理
解し得ない。それは不可能である。しかし我々は予測することができる。また推定す
ることができる。そしてそれだけが我々に残された唯一の道である。

注)ここで扱われる瞬間を単に時間的な意味で受け取ってはならない。あくまでも 
 瞬間の内部の総合的な全体を意味している。また瞬間は完全に連関的であると  
ともに完全に自己完結的であり、それゆえ永遠的である。
問題点:瞬間あるいは瞬間の無限の持続である時が全存在を包み込むと同時に時が 
   存在(eg.人間)内の最も重要な構成要素であること(時の定義).
    存在(eg.人間)内の要素あるいは存在の組成・形成のための根源的な存 
   在である時と空間の関係(融合されたものとしての).
   “連関”の存在規定.
訂正:未来はどこにも存在しない.(全宇宙においても規定され得ない)
   現在は瞬間に還元される.
   過去という概念も規定できない.
   過去は存在内における個々の瞬間(それぞれ自ら現在化している)に還元さ 
  れる.
   現在化の規定は現在という規定し得ない概念に基づくのではなく個々の瞬間
   に基づく.』

 ――実に惜しまれることだが、「しかし我々は予測することができる。また推定す
ることができる。そしてそれだけが我々に残された唯一の道である」という記述は、
すでに20年も経ってから振り返ると、やはりまだ、「我々による告白文」としての
幼さが感じられる。やはりまだ、「我々に残された唯一の道」というおよそあり得な
いものを追い求めて告白しているのだ。もっとも実際の経緯は違ったのだが、いつま
でもこのレベルにとどまっていては、あの欠如の迷宮の奥深くへとさらに踏み込み、
戦いを続けるのは難しい。
 即ち、

- 17 -


  【第5章:少女文字《コクル=告白する》を巡る仮説】
――ある少女たちの言葉の一例。⇒コクル=告白する。
【実験的仮説】:すでに生まれ落ちた時から完璧に遍在し、それによって包囲され尽
くしていた装置からの集団的離脱の試みとしての言葉。とりわけ少女言葉、少女文字。
⇒言表行為のレベルと言表のレベル、つまり予定され割り当てられた〈現実〉との超
連結(これによって言表行為のレベルはその都度言表のレベル=〈現実〉へと循環的
に取り込まれる)としての主体化を解除する試み。
 ――ただしここで、予定された言表の主体の没落の後に、言表行為の主体のみが生
き延びるというわけではない。
⇒アクセント、イントネ-ションの系統的かつ突然変異的な消去/変換。字体の系統
的かつ突然変異的な変形/変換,etc.
――ただこの集団的実践も、それ自身の調整・配備の超連結化がかなり柔軟かつ綱渡
り的なものであれなされる必要があり、また絶えずなされていて、それ自体装置の突
貫工事性を持っていると言えるだろう。この循環を成功させようとする力はしばしば
途方もないものになる。
⇒それはおそらく、ディスプレ-画像の内部で誰かが、またはある集団がかつてない
特異な言葉を喋りまくっていたとしても、常に同時にその言葉を適度に自動編集しつ
つ、言表レベルとしてのテロップ(Television opaque projector)として/によっ
て映し出す機能が作動しているならば、その特異性が消されていくのと同様のメカニ
ズムだ。我々の社会においてこの装置が急速に増殖し続け、ほとんど遍在してしまっ
たことは、この観点から見て実に興味深い。
――いずれにしても、離脱の試みは、果てのない綱渡りになる。

――だが、彼女たちの言葉は、こんな陳腐きわまりないメカニズムに回収され尽くし
てしまうはずもない。
 ――私の勝手な依頼に応じて、彼女たち自身によって選りすぐられた分析資料との
突き合わせの時がやってきたようである。ただし、これら生資料は、言うまでもなく、
本来は字体そのものが鮮やかに提示されていなければならない。むろん、デジタル画
素に分解して取り込んでしまえばいい。だが、『マスタ-ノ-ト』(アスキ-)も市
場に出回っているようだし、以下はあえて眼に見えない字体・イラストetc.と付
記の形を取った「書くこと/書かれたもの」との組み合わせという遊びを試みてみた
い。(もちろんこれらの付記のほとんどは、本来まったく不要または余計な代物であ
る。) なお、彼女たちの要望により、氏名に相当する、またはそれを推測させる部
分を伏せておく。また、資料のすべてを紹介できないのが非常に残念だ。協力してく
れた彼女たちには心から感謝している。
 『……DEAR→(この矢印は、実際にはRの一部であり、上方へと跳ね上がってい
る),☆☆☆さん.
字、きにってくれてアリガト→。
そんないいっすか? 
私の顔プリクラで知ってる? 
知らなかったら見せてもらって。
 ☆☆☆☆☆→☆☆☆。
      Good→Bye
(以下は紙の裏側)
☆☆☆さんへ
☆☆☆☆☆-☆☆☆



☆☆☆さん(ワ-プロソフトの都合により転記不可記号:実はハ-トマ-ク)
初めまして。☆☆(転記不可記号:コグマの顔様のイラスト)です。
字変わってマス(転記不可記号:しずく様の句点)
☆☆サンにはhomework
写させてもらって オセワになって
ま――→(この矢印は途中で一回輪を描いている)す(転記不可記号:ハ-トマ-ク)
     では、bye-bye(転記不可記号:ハ-トマ-ク)
(以下は裏側)
                 ☆☆☆
                  サン



ハ-トに火をつけて
SHAKE
星に願いを
ロンリ-・ウ-マン



Dear(転記不可記号:小文字のvを縦に二つ連ねた形のもの)☆☆☆☆☆☆☆ど
うもっ。☆☆☆☆☆☆です。流行(ハヤリ)の字をGETしました。
漢詩の事がかかれたのは☆☆☆さん、年賀状のはなんと友達に
かしてもらって、コピ-させてもらったのだ→。
左が☆☆☆☆さん、右が☆☆☆☆☆さん、blueの紙は
☆☆☆☆☆☆さん、茶色のは年賀状の左の人と同じで、メモ帳
のは☆☆☆☆さんです。いや→つかれるよ。集めるの。
感謝しなさいよっ。では、今日はいろ×2(この×2は、実際には右肩指数的表現に
なっている)することがある
ので             Bye Bye
    
       From(転記不可記号:同上) Minako
P.S.☆☆☆☆が今月いっぱいでやめるそうです。




1996.3.6
**Message**(gとeがややかすれているためか、この右上に小さく「ち
ょっと 失敗しちゃった…ごめんね」という書き込みがある)
☆☆☆さんと出会ったのは…部活
入るときだったから4月か5月だっけ?
どっちにしても、まだ1年もたってない
のに帰っちゃうんだね-。もう、
(ここで欄外に「ごめんね-(この後涙のしずく様句点が二つ)」という記述が以下
の記述へと向かう矢印を付せられて書かれている)
“☆☆and☆☆”さんの名コンビが見れ
ないと思うと淋しいしスゴイ残念だ
よっ(転記不可記号:おそらく「感嘆符の変形」としての「かなり大型のしずく様句
点二つをそのうちの一つをやや横向きにして縦方向に連ねたもの」) 
☆☆☆さんは、初めはスゴク
静かでおとなしい子だな-って思ってた
けど……今は、目立つほうじゃないけど、
明るくって かわいくって 超いい子だな-
って思ってるよ(この後ハ-トマ-ク)本とに!!
きっと日本に行っても友達
なんてスグできちゃうねっ。
でもできれば 私やバスケ部
のこと、忘れないで たまには
思い出してNE! 日本に行っ
ても 頑張れっっ!! ヒマがあったらお手紙下
さい。
(欄外の素晴らしい手書きのイラスト[=この手紙の筆者が静かに目を閉じて微笑み
ながら「バイバ-イ」と言っている姿が描かれているもの]が転写できないのがつく
づく残念である。)



 1997.1.1
年賀状ありがとう。
プリクラは学校でね。あまり持ってないの。
3学期もよろしくね。
あそんだり、カラオケ行ったり、プリクラとっ
たりしよう……。
     元気で(この後ハ-トマ-クが三つ)



1996年はいろ×2(右肩指数的表現になっている)
おせわになりました。
塾の時おしえてくれてあ
りがとう。私、頭の中どうか
してるからぜん×2(同上)わかんない。
1997年もそうなるかもしれ
ないけどよろしくおねがい
します。今度塾行く前みんな
で遊ぼうネ。
今年も仲良くしてネ。

☆☆☆☆☆☆より

 (実に素晴らしい牛のイラストをここに紹介できないのが余りにも残念である)』



「ウソついちゃダメです」インタビュ-コ-ナ-「かくごして
下さいネ“っ”」   (天使のささやき インタビュ-)


A.私は  ムササビ に似ていると思う。(点線部が回答覧である。以下同様)

B.将来のユメは  こいのぼりになること  です。

C.好きな人は 3 ねん B くみ又は  きんぱち先生の 学校にいるヨ。

D.カラオケは月 2 回ぐらいで ?  が得意です。
E.今一番  3者面談を2者面談  にしたい。

(注:「にしたい」は本来は「がしたい」だが、その直前の記述に合わせて回答者が
勝手に「が」を二重斜線で抹消した上で「に」に書き換えている。)

F.セ-ルスポイントは です。(回答覧は何故か空欄になってい
る。)
 
G.ズバリ 第1印象は   「おしとやか」そう   で、

H.つきあって みたら  けっこう楽しい人  だった。

I.Cの質問に答えた人. それはズバリ きんぱち先生 です。

フリ-スペ-スです
いっぱいかいてネ“っ”
◎E組の☆☆は、本当の名前
は、「ハトポッポ☆☆」ってゆ-
んだよ。だから、ハトポッポ☆☆
を見た時には、「ハト」ってよぶ
とふりかえるよ!
◎そして、ハトはバスケが超
うまいんだよ。☆☆☆とか
☆☆☆とか☆☆ちゃんも上手
だけどね。
P.S.
☆☆ちゃんに質問。
きんぱち先生は、好き
ですか?
あれ、なにげにおもしろ
いよ。見てみよう!



A.私は   キリコ  に似ている(この直後回答者が以下の記述を挿入:「と、
友達はいうけど絶対にちがう」)と思う。

B.将来のユメは   ナイスバディ   です。

C.好きな人は 2 ねん B くみ又は  第3中 学校にいるヨ。

D.カラオケは月 2 回ぐらいで  パチンコ  が得意です。

(ここで「パチンコ」に向かって矢印が引かれ、「とくぎ」という記述。さらに、こ
の記述から矢印が延びて、「ちなみに、カラオケのとくいなのは、アニメソング[こ
の後ハ-トマ-ク]」という記述。これはフリ-スペ-スの記述であろう。)

E.今一番  お買いもの  がしたい。

F.セ-ルスポイントは  天然バカ です。

G.ズバリ 第1印象は   おとなしいこ   で、

H.つきあって みたら  話のわかるヤツ  だった。

I.Cの質問に答えた人. それはズバリ     です。(空欄になっている)

フリ-スペ-スです
いっぱいかいてネ“っ”

じく[むろん?「塾」であろう]やだ。
でもこれからも
いっしょ行こ-ね。
クラスおちるかも。
まだカトリ-ヌ すき?



A.私は  ☆☆☆☆☆☆  に似ていると思う。

B.将来のユメは  かっこいい人のおよめ(この直後に縦方向に上から下へ「SA
N」という記述) です。

C.好きな人は 2 ねん ? くみ又は  この  学校にいるヨ。

D.カラオケは月 1 回ぐらいで  昔い歌  が得意です。

E.今一番  彼氏がほしい  (この直後の「がしたい」は削除されている)

F.セ-ルスポイントは  短かいヘア- です。
G.ズバリ 第1印象は  髪の毛がきれいでやさしそう で、

H.つきあって みたら やっぱメチャ×2(右肩指数的表現)いい人  だった。

I.Cの質問に答えた人. それはズバリ  いい人  です。
 
フリ-スペ-スです
いっぱいかいてネ“っ”

☆☆chanは好きな
人とかいないの?
やっぱ中学時代は
“恋愛”をたのしまなきゃ。
青春はこれからさっ。
これからも同じクラス
の友達として仲良くして
いこうネ。こまったこと
などがあったらいつで
も相談して下さい。
あそぼうネ』

  【第6章:予定された《現実=状態》の狭間で】
 ――予定された現実、すなわち、すでに余りにも繰り返し語られ、文書化されてし
まったことによって、いつしか我々に割り当てられ、植え付けられた現実。つまり、
過程と出来事を抹消した後に残される灰色の領域、あるいは、「そうなっていること
=状態」。いわゆる「常識」がどれほど急速に束の間の変貌を繰り返そうとも、過程
と出来事が「そういった状態」の名のもとにその都度抹消されることにはなんら変わ
りはないのだ。絶えず移り変わる「世の中の状態」、――そして「お前の状態は?」
 
 これまで問われることのなかった永い忘却の時。――占領され、植民地化され、剥
奪された我々の隷属状態。そしてまさにその《状態》の帰結としての、つまり我々が
隷属していることの帰結としての「我々が占領し、剥奪し、植民地化する我々の奴隷
たち」……。こうした《状態》が、その同じ我々によって全く受動的に恒常的な《現
実=状態》とされ隠蔽される場合、それに対する一切の抵抗=出来事はこの《現実=
状態》の名のもとにきわめて残酷な様式で抹消される。――すなわち、《国家-状態》。
そこでは、「抵抗」などという言葉は、死語でしかないものとされる。そこでは、い
わゆる「歴史」とは、この永遠の抹消の記録=現実なのだ。
 ――遍在する、眼に見えない異端審問。そこにおいて我々は、すでに語られたこの
《現実=状態》を、改めて「任意の今とここにおいて無際限に反復されるべきもの」
として反復し続け、あらゆる出来事をコントロ-ルし抹消する装置に自ら成っていく。
そして、膨大な数の任意の他人たちとの連鎖を形成することになる。……この点から
見れば、我々が「噂という装置に成ること」は、あらゆる状況・場面における基本的
テキストまたは原則的なマニュアルとしての、あらかじめ用意された作文のコピ-反
復行為という遍在する我々の《現実=状態》の一部に過ぎない。それを例えば、オウ
ム真理教的=麻原彰晃的方法による言表行為とあえて呼ぶ必要は全くないだろう。あ
らゆる場面で作文のオウム返し/棒読みが氾濫しているのだから。

 我々の〈自己〉とは、こうしたメカニズムであり、同時にプロセスである。すなわ
ち、《仕込みの道徳》と《飼い慣らしの道徳》による内的発話(他人たちには聞こえ
ない自分だけの声=独白)と外的発話(原則的には任意の他人たちによって聞かれ得
る声)の重ね合わせの訓練という不断のメカニズムでありプロセスなのだ。

 ――従って、あの少女たちの言葉の持つおそらくは避け難い二重性、そしてその綱
渡り的・集団的な抵抗の力を、例えば以下の資料との突き合わせによって分析する必
要がある。

 『……日本の裁判所が常に「信用」するこの供述調書とは一体何物か?
 (……)取調べは取調官と被疑者や参考人との何時間、時によっては何日も続く問
答、多くの場合は押し問答だ。「やっていない」と否認する被疑者ほどこの期間が長
い。
 この問答は記録されない。被疑者が「落ちる」――つまり容疑を認めると「じゃ調
書取るから」。[原文にはないが句点を付加した――引用者による注記、以下同様]
 取調官は机の上に紙を拡げて書き始める。
 何時間か続いて「じゃ読むからな」。読み聞かされる内容に被疑者は驚く。刑事と
の押し問答で仕方なくうなずいたのが
すらすら独白した形で
仕上がっている。
 自分が言ったことで書かれていないことがあり、逆に刑事が言ったことも自分が言
ったように織り込まれ、事件の一部始終が自分が使わない種類の言葉も入れて理路整
然と説明されている。なんだか別の世界のことのようだ。
 さ-っと読まれて「間違いないか」と聞かれても、長い文章のどこがどう違うと口
にできない。
 冤罪者達は「違うと言えば全部違うが署名を拒否できなかった」と口を揃えて言う。
そうなる理由は稿を改めて書こう。
 ただ一つだけ確実なのは、ロッキ-ド事件の被告が「調書は検事の作文」と言った
が、日本の供述調書に取調官の作文でないものなどないことだ。この作文が有罪の決
め手になる』
(五十嵐二葉 『裸の司法 16』 週刊金曜日 No.170.p.19. 強調及び改行の操
作は引用者による)

 ――そこにいるすべての者たちにとっての、そこにいない(しかし同時に確かにそ
こにいたはずの、そしてそこにいるかもしれない、さらにはすぐそこにいるに違いな
い)見知らぬ他者によって引き起こされた恐るべき、信じ難い出来事(「そこで一体
何が起こったのか?」)について、そこにいる(あるいはいた)誰もがついに完全に
口を閉ざした瞬間から……同じメダル(噂)の裏側としての沈黙の無際限の連鎖が開
始される。
 ――自分だけに聞こえるはずの声、即ち内的発話の領域は閉ざされる。「自分」と
いう領域は深い空白領域に入り込んでいく。外的発話の領域も噂が裏返しにされると
同時に閉ざされる。即ち、「自分=皆=世間」の領域は永遠にも似た深い空白領域へ
と変貌していく。思考の永遠にも似た抹消=沈黙。
 ――独白は恐ろしすぎる。従って、その独白が任意の他人たちによって聞かれ、ま
た同時にその同じ任意の他人たちの独白を聞いてしまうことも。つまり、任意の他人
たちとの、この独白の予定されていたはずの交換としての噂もまた恐ろしすぎるのだ
……。
 ――だが、ここでの恐怖に満たされた沈黙は、決してあの《仕込みの道徳》と《飼
い慣らしの道徳》による内的発話と外的発話の重ね合わせの訓練というプロセスの破
綻ではない。先に同じメダルの裏表にすぎないと言っておいたように、この沈黙こそ、
訓練プロセスの仕上げの段階なのだ。ここで、まさにそれを口にすることがそこにい
る/いた者たち=我々にとって不可能だったのだが、最も恐ろしい仮定を導入するこ
とは容易だ。
 すなわち、もしこの噂=沈黙の領域が、先の供述調書という言表群=装置の領域と
重なり合っていたとしたら……(その時、あなたが……いや、それは私かも知れない
……つまり、誰もがそうなり得るのだが……その恐るべき、信じ難い何かを演じた者
に仕立て上げられるのだ……こうして、あなたも「狂気の犯罪者」の仲間入りをする
ことになる……)



 人々の噂と沈黙の同時生成のただなかでまさにそうした者に仕立て上げられなが
ら、それでもなお、あの少女が獲得した書くことの力と共鳴する力を獲得した者と、
その獲得プロセスそのものを最初に切り開き、彼に贈り与えた者に関する資料……。

 『……石川 すべての日本語をおぼえるのに九年かかりました。東京拘置所に行っ
たら、ある刑務官で死刑囚の係りの人がいたんです。その看守さんから「無実の者を
絞首台にあげることはできない。どういうことになったか聞かせてくれ」といわれて
いろいろ話したんです。すると、
「外の人たちに訴えるには
刑務所では手紙しかない。おまえはまったく文字ができないのなら、今日から俺が教
師になってやる」と人事異動になるまでの四年間、教師代わりになってくれたんです。
 最初の三年は漢字の書きとりをしました。でも、勉強するには下書きからボ-ルペ
ンや鉛筆が要ります。死刑囚には一日七枚のチリ紙をくれるんです。昔はもまないと
使えないようなかたいチリ紙だったんですね。余ったチリ紙は普通は庶務課へ返さな
くちゃいけないんですけど、それを何枚もくれて、それを下書きに使いました。最初
は読めなくても同じ字を一O回ぐらい書き、一O日たってからまた同じ字、二O日た
ってからまた同じ字、一OO日たって書ければもう自分のものになるということでし
た。看守さんが休みのときは、宿題用の漢字を五O字ぐらい置いていくので、怠ける
ことはできなかったですね。
 あとの三年は音訓表を打ってもらって読み書きの練習です。手紙を書くとなると意
味合いがいっぱいありますから、『漢和辞典』や『少年手紙法典』で調べました。い
までもメッセ-ジなんか書くと、「何で石川さんはそんな難しい字を書くんだ」って
いわれるんです。習った土台が戦前の画数の多い字ですから、そちらが頭に入っちゃ
っているんですね。
 練習したチリ紙をごみ箱に捨てると、ほかの看守さんに見つかるので、すべて看守
さんが家に持って帰って捨ててくれたらしいんです。立場を離れて看守さんが私に字
を教えてくれ、本当にありがたかったですね。看守さんの奥さんも私に協力してくれ
て、ボ-ルペン・万年筆・鉛筆を、身内になりすまして差し入れしてくれたらしいん
です。四年間、ず-っとです』
(石川一雄 『「見えない冷たい手錠」が解かれる日』[鎌田慧によるインタビュ-
記事]週刊金曜日No.171.p.18. 強調、改行の操作は引用者による)

 ……私は一体誰なのか? 思考を触発するはずのこの問いかけに、いつも早すぎる
解答がいつしか用意されてしまうことを――そこには常に、あの見えない冷たい手錠
もそっと用意されている――この資料における「書くこと」はその都度打ち砕いてい
く。あの問いかけは、私が訴える相手、あるいは「外の人たちとは一体誰なのか?」
という問いかけと不可分であり、その問いかけとともに生きる。二つの問いかけを同
時探求するプロセス。それは完全なものに見えた、監禁と超コントロ-ルの空間をそ
の都度掘り崩していく。ただその限りでのみ、「仕立て上げられる」という罠から逃
れることが可能になるのだ。

Copyright(C) Nagasawa Mamoru(永澤 護) All Rights Reserved.


© Rakuten Group, Inc.